淀姫神社詳細の項
このページでは、社頭パンフレットに掲載できなかった、少し詳しい内容のご説明をさせていただきます。
淀姫命(よどひめのみこと)
本来は「豊姫(とよひめ)」という姫神さま。
さまざまな伝承・風土記などによると、かの三韓征伐を為した第十四代仲哀天皇のお后である「神宮皇后(おきながたらしひめ)」の妹にあたる存在らしい。
日本の正統的な歴史書と言われる「記紀神話」にも一切名前は出てこない、謎の多い神様です。
「肥前旧事」「八幡童蒙記」などを見ると、神宮皇后三韓征伐のくだりに、こんな記述が出てきます。
住吉は、大海の南面をやや久しく御覧て、沙迦羅龍王の旱珠満珠(※後述)と云う二つの玉を金の鉢に入て、只今是を愛し翫(もてあそ)ぶ、彼玉を借て力を不盡して異賊を降伏せはや使を可被遺とそ申されける、けにもいみしかりなん誰をか、御使とはすべきと、武内申されしかは、皇后の御妹豊姫は如来の相好の如して世に比なき御姿也。假令龍畜の身成共此女人には爭心解さらん豊姫を遣玉へと住吉計ひ申玉ふ。(中略)されは豊姫高良磯良を具し玉ひ龍宮へ行玉ふ可に成しかは皇后は御妹豊姫の御手を取組 (中略)
現代語私訳:
住吉の神は、大海の南面をしばらく御覧あそばして、沙迦羅龍王が潮干珠・潮満玉と言う二つの玉を金の鉢に入れて、いまこれを愛でて遊んでおられる。あの玉をお借りして、力を尽くして異賊を降伏させるべく使いを送るべしと仰った。とはいっても、あまりにも強大な龍神に相応しく御使いになれるような方は誰であろう。武内(恐らくは武内宿禰)が申されるには、「皇后の御妹であられる豊姫は、如来のような相貌で、世に比類なきお姿である」たとえ龍の身なれどもこの女性に対しては争う心なども解されてしまうだろうから、豊姫を遣わしたまへと、住吉の神は計らい申し給う。
このように、とても美しい姫様だったと言う伝承が残っています。
この後、龍宮城へ赴いて、沙迦羅龍王より潮干珠・潮満玉を借り受けて、戦いに赴くわけです。
このくだりには、住吉の神・高良の神・安曇の神などなどさまざまな神様方が絡んでくるのですが、それは今のところ割愛させていただきます。
以上の「淀姫伝説」は、北部九州の広範囲に存在しており、また、淀姫命を祀る神社も数多存在しています。これは、北部九州一帯が「海人族の支配する地域」であったことに起因します。
海人族は、読んで字のごとく「海の民」ですから、当然大海原を司る「海神」を祭神として祀っています。「海神」が支配する大海原には、当然「海神の住まう宮」があるわけです。 それが後の仏教輸入にともなって、「龍宮城」と呼ばれるようになったと思われます。
淀姫墓郭 (出典:「松浦市史」 松浦市史編纂委員会)
明治十六年内務省並に北松浦郡庁に郷社淀姫神社社務所より上申、浦免総代祖川猪吉、氏子総代谷口十三郎、大石安之助立会の上、石工岩崎慶治発掘、深さ一メートル五〇センチ、出土品を書留めた書類によると。墓は砂岩をくりぬき箱式石棺(蓋に平い石をのせた)横一メートル縦二メートル深さ一メートル枕石十センチ~十五センチ底に玉石を敷く。
一、鉄の折 二五折
一、御遺骨 五折
と記してあり。なお土器片、髪飾りに使用する貝殻多数出土とある。
出土した土器類より推察すると、縄文後期の物もあるが、主に弥生時代の物が多い。
鉄片は双刃の剣であろう。東アジアでは、紀元前六百年頃、即ち釈迦や孔子の生れた時代は鉄器使用が普及していた。また銅器は紀元前千四百年頃盛んに使われたもので、銅器の使用を覚えた人々はいままで使用していた石器は不要となり、他の未開の地に石器の斧類を贈物とした。
銅器使用の年代は日本では短く、銅器による鋤や鍬を使うまでもなく、鉄器時代に移行し、鉄による日用道具を造り、原料は手近の砂鉄であったが、新羅等より鉄を輸入して優秀な刀剣を製造した。
鉄器の使用により造船法も長足の進歩を遂げ、三韓役時代には大船を製造する技術も発達し、構造船を造り、既に大洋を航するに足るものを製造し得るにいたっていた。
また書記には「船を編んで」とあるように、船を繋ぎ合わせ、波除を張る等して兵船となした。 骨片は玄武岩等の酸化土の場合、鉄や骨のカルシュムと化合して早く消失するが、砂地は酸性ではないので、淀姫墓郭内に残存していたものである。
景行天皇(けいこうてんのう)
第12代天皇
和名諡号:大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
当松浦地方の伝承によると、景行天皇九州巡幸の際、 志佐には景行十八年五月に、大浜の車瀬に船を着けられたといわれる。
そしてこの地を行宮(かりみや)として暫くおとどまりになり、大島や平戸方面に部下の百足を遣わして、降伏をすすめられた。(中略)この行宮の跡に景行天皇をお祭りする社を時の人々は建て、永く天皇の徳をお慕い申した。出典:「松浦史誌」ほか
(ちなみに、「古事記」には九州巡幸の記述はありません。)
豊玉姫命
いわずと知れた、海神「綿津見神」の娘で、神話「海幸・山幸」のお話でも有名な、龍宮の姫神様です。
天照大御神の命を受け、葦原中国を治めるべく、天孫として日向に降り立ったニニギ命(天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊)が、山の神「大山津見神」の娘「木花佐久夜姫命」との間にもうけた「火遠理命=山幸彦」と結婚して、後の神武天皇の父「鵜葺草葺不合命」をお生みになります。
が、「私が子を生む姿を決して見てはいけません」という約束をニニギ命は破り「龍の姿になった姫」を見てしまいます。
それを嘆き悲しんだ姫は「綿津見国=海の国」へと帰ってしまいました。「綿津見国=海の国」はいわゆる「龍宮」のことで、昔話の「浦島太郎」にも出てきます。 「龍宮の乙姫」は、この姫神様がモデルといわれているようです。
松浦地方の族長「磯良」(しら)
もともとこの九州北部地方は海人族の治める地域でした。「磯良」は普通「いそら」と読みますが、昔使われていた名では「しら」とも呼びます。(※万葉仮名では「磯」を「し」と読みます)
先述の「肥前旧事」「八幡童蒙記」などの文献を見ると、「高良磯良」「安曇磯良」と二つの名が出てきます。
「高良磯良」は、恐らく武内宿禰の率いる部族、「安曇磯良」は福岡の志賀島を拠点とする部族だと思われます。当淀姫の伝承に出てくる「磯良」はが果たしてどちらの「磯良」なのかは不明です。
ともあれ、この地方を中心にした強大な海の民がいたことは間違いないようです。
沙迦羅龍王(さからりゅうおう)
「さがらりゅうおう」とも読む。この龍王。天龍八部衆の龍族のうち、もっとも強大な八大龍王の一神でもあります。
古くはインド神話にに起源を持つこの神は、「サーガラ」と名を持ち、サンスクリット語での意味は「大海」であり、「龍宮の王」だそうです。
「記紀」によると、日本に仏教が伝来したのが欽明十三年(西暦552年)ですから、その頃にはもう天龍八部衆は仏教に帰依していたこととなっており、八大龍王も同じく仏教の守護神としての性格を持っています。
後世の神仏習合の間に、この神話の中に取り込まれた可能性も垣間見えます。
しかし、元来の「名」の性格はそのまま受け継がれており、神宮皇后三韓征伐のくだりでも、やはり「龍宮の王」であることに間違いはありません。